この日12月9日土曜日、朝食と散策を終えて居室に戻っていた我ら、約束の10時にエントランス・ロビーに集合、オーナーのご案内で館内を巡りました。
私お名前を聴き取れませんでしたが、嫁によるとマリアさんです。
「ロビー」というものかどうか何とも言いかねますが、チェックイン・カウンターのようなものはありません。ただ少なくとも我々が入った客室の前室、来客控室と、オフィスなのか私邸部分なのか分かりませんがマダムが出入りする部屋への扉があるのです。
この宮殿は、1713年にフランチェスコ・マリア・ルスポリ‘Francesco Maria Ruspoli’(初代チェルヴェテリ公)(注1)が購入し、それ以来ルスポリ家のものになりました。
フィレンツェ出身のルスポリ家の紋章はぶどう。財を成した銀行業を売却してこのとき既に100年を経過しています。
嫁がマダムの説明(英語です)を聞き、英語力が怪しくて聞いても分からない私は同じ室内をウロウロして撮影。
このギャラリーは来客用の控室。
天井画が派手です。
ここが応接室ですね。マーブルの床が素敵。
これは会議室/食堂でしょう。
この宮殿を飾る多くの絵画は、フランチェスコ・マリア公の時代に、当時の多くの著名な画家により描かれました。
これは代々のルスポリ家当主の書斎だったとか。
エントランス・ロビーに戻って来ました。
ロビーにあるカウンターは、ローマ教皇が来訪時に帽子を置くためにあるんだそうです。いっとき私がiPhone置きましたが、ちょっと畏れ多い行為でしたな。
なお、紋章右側にはライオン。ライオンといえば英国王室などでよく使われる図像ですが、マダムはルスポリ家(厳密にはフランチェスコ・マリア公の祖父のマレスコッティ家)のルーツはスコットランドにあると仰っておりました。尚、ルスポリ家は武門の系譜だそうです。
ありがとうございました、マダム。
因みにマダムはマルチーズかな、飼い犬を抱き抱えていましたが、吠えない、動かない。実におとなしい犬でした。
まあ飼い主がいいんでしょうね、つまりあれだ、遊歩道とかで見掛けるその辺の犬は、やっぱり飼い主がアレなんだな。
夕暮れの回廊。
【部屋に戻る】
時間は連続していませんけどね。
フランチェスコ・マリア公は、ジョヴァンニ・バッティスタ・コンティーニ‘Giovanni Battista Contini’(注2)に依頼して改装し、また多くの画家に依頼して装飾していますが、コンティーニの功績の1つが演劇アカデミーです。
ルスポリ家は、宮殿を街の中心的な社交場の1つとし、1700年代後半には豪華なパーティーで有名になったそうです。更にフランチェスコ・マリア公はここで有名な文学サロンを主催し、ホールでは評判の演劇が上演され、スカルラッティやヘンデルなどの音楽家のアカデミーも有名でした。
ルスポリ邸には色々な客人が去来していますが、双璧の一方がヘンデル‘Georg Friedrich Händel’(注3)でした。文献毎の時期が合わないので何が事実か分からないところがありますが、約5年間のイタリア滞在のうち2年をローマのここで過ごしたとされており、オラトリオ「復活」の初演の場所はこの館だそうです。
そしてもう一方が、この部屋の名前の由来である、後のナポレオン3世とその母オルタンス・ド・ボアルネ‘Hortense de Beauharnais’(注4)。
ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの先夫との間の子で、ナポレオン1世の弟ルイ・ボナパルトと1802年初頭に結婚、ルイのオランダ国王就任(ホラント国王ローデウェイク1世)に際して王妃になったオルタンスは、ナポレオン1世の百日天下が崩壊した後各地に亡命、幼少期のルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)とともにここルスポリ邸に滞在しました。
マダムの説明によると、「天井の高い部屋は寒い」というオルタンスの希望に応じて、高いイタリア格子天井を下げて天井画のあるフランス風の天井にしたそうです。この部屋が最も女性的ですね。
天井が他の部屋より低い印象はない、というか客室では寧ろ一番高いと思いますが、ラウンドしている分だけリフォーム後の容積は減ったのかな。
オルタンスは、この館に滞在した8年の間に、天井と壁を嘗て過ごしたパリのマルメゾン城の意匠で装飾したのだそうです。
もっと広くて天蓋付きのベッドがある部屋と、装飾がプリンセスなこの部屋、どっちを嫁が喜ぶか私は結構悩んで決定しましたが、嫁は断然こっちだったそうです。
レギュラープライス27万円@1泊。
residenzaruspolibonaparte.com
レギュラープライス29万円@1泊のSuite Imperatore Bonaparte。
residenzaruspolibonaparte.com
レギュラープライス25万円@1泊のSuite Napoleone。
residenzaruspolibonaparte.com
他2室の写真はオルテンシア・スイートと共有している前室の写真が入っていたり、2室のどちらにも同じリビングルームの写真が使われていたりと、実態どういう感じなのか分かり難いです。
これで念願のResidenza Ruspoli Bonaparteに宿泊しました。念願した部屋で。
レギュラープライスがいつ適用されるのかはよく分かりませんが、ざっくり10万円@1泊ルームチャージでした。
滞在中の利便性は立地からして極めて高いですが、
- 入口はわからないわ、
- 夜中は人がいないからトラブっても頼れないわ、
- 広過ぎて暖房追い付かなくて寒いわ(ヒーターを追加して2台にしてもらいましたが、2台使用では他の電気機器を切らないとブレーカーが上がる)、
- 今も謳っているのに部屋での優雅な朝食はできなかったわ(これは改善して欲しいぞ。問題はキッチンでなくメール/メッセージへの応答体制かもしれませんが)、
- WhatsAppのメッセージに反応がないと身動き取れないわ、
ホテルとしてのアメニティを期待したら色々足りません。
というかB&Bです。Bが1つ足りないので、私は「民泊」と言っています。
ホテルのサービスを期待するなら、期待する方が悪いです。
しかし❗️
いいのです、そんなことは。
宮殿です。
紛れもない名門貴族の邸宅です。
日本でなら登録文化財どころか指定文化財=重要文化財確実の、ルネッサンス〜バロックの歴史的建造物です。
その豪華な一室です。
しかもオルタンス元王妃とシャルル・ルイ=ナポレオンが滞在した部屋です。
この体験そのものがスペシャルなのです。
200年前なんて色々不便に決まってるじゃないですか。
多少の不便は仕方ないものと甘受して当時の栄華を偲ぶのです。
そういう人にはサイコーです。
1泊ウン十万円払ってもホテルでは体験できません。
いやー、よかった。
嫁的にも史上最高、ダントツ最高だったそうです。
それが1泊10万くらい。
安いくらいです。
本当によかった。
まあ2回3回泊まるとこではないかもしれませんが、ホント貴重な体験でした。
日頃参照していないので、今回も事前には読んでいませんが、ミシュラン・ホテルガイドでも紹介されていました。
guide.michelin.com
以上歴史に関連する説明は、主に館の前の説明板byローマ市(イタリア語・英語)、人物解説についてはインターネット、ルスポリ家についてはマダムの解説などをミックスし、私がある程度体裁のつく日本語にしました。一次資料には当たっていないので、時期の不一致など気付いているものもあるのですが、追究していないので適当に捨象しています。
ルスポリ家とマレスコッティ家については、英語版ウィキペディアに詳細に記載されています。
en.m.wikipedia.org
これによると、第10代チェルヴェテリ公フランチェスコ・ルスポリ氏(マダムのお父君だと思います)は現在もここにお住まいだそうです。
注1:「Principe」は必ずしも王子でなく「小国君主」「領主」「大御所」などあり、私は「領主」から「公」と訳しました。この方は、ミドルネームに「マレスコッティ」を持っており、祖父スフォルツァ・ヴィチーノ・マレスコッティ(ヴィニャネッロとパラーノの第4代伯爵)の姓。一人っ子だった祖母ヴィットリア・ルスポリのため、孫にルスポリの名を残した。
注4:
ナポレオン1世の皇后
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと離婚した先夫アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵との娘。義父ナポレオンの強い希望により彼が最も可愛がっていた弟のルイ・
ボナパルトと
1802年初頭に結婚し、義父ナポレオンが1804年フランス皇帝に即位した後の1806年にルイがオランダ国王に即位したのに伴って王妃になった。不仲のルイとオルタンスは
1810年に離婚し、2人の間に生まれた3人の息子のうち、三男の
シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(後の
ナポレオン3世)はオルタンスが引き取った。オルタンスは、離婚後に同棲していたシャルル・ド・フラオとの間で、1811年に
ルイ=ナポレオンの異父弟シャルル・オギュスト・ルイ・ジョゼフ(後のモルニー公爵)を生んだが、1815年の
百日天下期にはナポレオンに先んじて
テュイルリー宮殿に入って女主人の役目を務め、
フランス帝国崩壊後にドイツ、イタリアに亡命、その後スイスにアレネン
ベルク城を購入し、そこで没した。