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「表現の不自由展・その後」について

国内でのアート関連の話題はほぼ音楽オンリーなのですが、美術系の話題。

 

東浩紀氏も津田大介氏も知りません。

「あいちトリエンナーレ」がどんなものかも知りません。

知っているのは「3年毎に開催」。このイベント自体でなく「トリエンナーレ」に対する語学的知識。そもそも「現代アート」を謳っているものにはワタシ興味なし。私にとって、ベルニーニはそれを観ることを目的にローマに出向く価値がありますが、ペギー・グッゲンハイム美術館には観る価値を見出してないのでヴェネツィア行っても寄ったことありません。日本で現代アートの展示会やってても、チケット貰っても行かないな。

という人が語っても仕方ないのですが、この展示に関わるアーティスティックでないサイドストーリーが気になって仕方ないので、論じます。

 

知らないで論じてはいけないので、開催要領は読みました。「コンセプト」はこう始まります。

「政治は可能性の芸術である」

コンセプト | あいちトリエンナーレ2019

えーと…。

政治的なテーマを採り上げたいと思っていたところに見付けたんでしょうか。読み進めていくと、、、支離滅裂です。

私、ウェーバーは多少語っていいくらい学んだつもりですが、ビスマルクは語れるほど学んでいません。でも。でもでも。そもそも原典は、「政治とは妥協の産物であり、可能性の芸術である」じゃないでしょうか。

コンセプトにまで持ってくるなら、偶々見付けたキーワードを都合よく加工するのでなく、ちゃんと読んでから書いた方がいいです。もうこの「妥協の産物」を抜いて引用している時点で、酷い曲解です。

夜中ハイになってつい手が滑って書き上げるのはいいですが、起きたら恥ずかしいと感じて下書きに戻しましょう。

ブログなんか書いている時点で大概恥知らずな私が言うのもなんですが、こんな文章晒すとは実にパンクです。古典・ルネサンス新古典派には理解できません。

読んだら実行委員会(に関与する愛知県、名古屋市)は通さないでしょ。それを通すって、補助金事業にこんな杜撰な仕事、監査請求もん、調査委員会もんです。

 

問題の「表現の不自由展・その後」。

 

「言論の不自由」という点では、皇室を採り上げるのはありだと思います、私は。「日本のアイデンティティ」です。日本国民として、日本民族としてデフォルトの不自由です。限りなく全員が受け入れても、全員が受け入れることはあり得ません。そもそも単一色は強くても単一民族国家ではないし、思想的少数派もいるものです。仕方ない。

皇室に係る展示は、昭和天皇のお写真を焼いて踏み付ける映像という醜悪な展示だそうです(注1)。それのどこがアートなのかを問うことは無意味なのでしませんが、他所に例えれば、キリスト教地域で聖書を、イスラム教地域でコーランを焼いて踏み付けるのと同じです。

日本の不自由文化は、卑しいものを白眼視し、共同体から除外する「村八分」文化。

キ◯ガイでも、命までは奪いません。テロ予告とか脅迫とか、陰湿なことする奴にうんざりしますが、それでも本気で殺そうとする奴は基本的にいない。ひょっとしたら1人もいないかもしれない。だから、中止の理由にそんなもの挙げてはダメです。出展者は確信犯なんだから殺されても本望でしょうが、あんなもんでも一旦展示を認めたのは実行委員会。テロ云々が問題なのであれば、矛先を入場者でなく出展者や実行委員会に向けるようよくアナウンスすべきですね。で、会場には万全の警備をするのが適当。「蛇女」を見に見世物小屋行くのは本来自由。

但し、このトリエンナーレには公金が入っています。公営見世物小屋www。反社会的活動に公金を支出することは不適当です。見世物小屋行きたい人には残念ですが、企画中止どころかトリエンナーレ自体止めて、調査委員会立ち上げて開催経緯を徹底調査するのが適当。

中止決定に対し、某政党含めて表現の自由」の侵害とやたらアピールしている人たちがいますが、公金運用は適正であることが当然。その制約は「表現の自由」の侵害とは言いません。何でも表現していいと思う方がおかしい。

こういうことです。

 

日本は君達の存在は許容する。

君達は自由だ。アングラで勝手にやれ。

 

寛容で自由な日本社会に甘えて「表現の自由ガー」とかジョーク言ってないで、聖書焼いて、コーラン踏み付けて本気で不自由を問え。

どっちが不自由かは知らないが、どっちが自分にとってリスクが高いかは分かっているからやらないんだもんなあ、この人たち。

 

あ、そう。日本での展示だから日本を問うている。ふーん。

 

「平和の少女像」と称するもの。

 

これはまさに言論の不自由の象徴です。

 

「平和の少女像」は戦争と性暴力をなくすための「記憶闘争」のシンボルとして、韓国各地をはじめ、世界各地に拡散している。

だそうですよ。世界各地の日本関連施設の前だったりするようですが。

 

戦時性暴力は深刻な問題です。ウイーン条約をあまり守っていたとは言い難い日本軍の戦時性暴力が少ないのは、軍紀よりも多分に慰安婦のお陰でしょう。将校よりも高額な報酬を払った、それだけの価値があった仕事です。今ある我々日本人は、兵隊さんとともに慰安婦の皆さんにも感謝しないといけない。

これが半島での人狩りだとか、半島出身者の方が多いとか、何十万人の「被害者」だとか、元々ありもしないメイドアップ・ストーリーがあたかも事実のように扱われ、異なる見解を示すと社会的に抹殺される。慰安婦問題は、隣国の言論の不自由の象徴でしょう。

我々は、現代史が、事実でなく意思で書き換えられていくその姿を目の当たりにしている。その醜悪さ、気味の悪さを、この像は象徴しています。それがこの像が体現する「表現の不自由」でしょ。

そういうキャプションを付けて展示すればいいんじゃないですか?

昭和天皇の写真燃やすのに税金出すのはNGですが、こっちはいいんじゃないかなあ。キャプションを付ければ。でも日本で韓国のことを問う展示なんかわざわざしなくていい。しかも日本へのヘイト渦巻いているときに。というか税金で他国のことを問うのは政治の仕事でしょう。

芸術家は韓国行って問え。というかそもそも作者は韓国人なんだから、わざわざ日本でやるより余程簡単でしょう。

 

で、昨日また参加アーティストの人たちが展示再開を求めて記者会見やったようです。

私には、この人たちの承認要求が何でこんなに強いのかよく分からない。

メインストリームで評価されたいなら、炎上マーケティングでなくマーケティングした方がいいし、信じるアートを突き詰めたいなら粘着質なクレームでなく制作に打ち込んだ方がいいと思います。音楽だったらそうするだろう、って普通に想像できるんですけどね。中止になったフェスをやれとか出演させろと騒ぐよりも、目の前のオーディエンスに音楽届けようとすると思うのですが。

美術だって、公立美術館なんかよりも、庄内川の河川敷でゲリラ展示するとか、花園神社に黒テント張って展示する方が余程面白いんじゃないでしょうか。あ、でも現代アートであっても別に前衛アートではないのか。

因みに私、バンクシーはさっぱりいいと思ったことないですが、唐十郎はかなり好き。でも黒テントはお尻が痛くなるから嫌です。

 

注1:こういうことをする人達の中には昭和天皇を戦犯扱いしたい人が多くいますが、昭和天皇大日本帝国憲法下でも厳格な立憲君主で、日本国憲法下の象徴と実態大差ありません。逸脱したのは、以下3回が通説ではないでしょうか。まあ全ての国事は天皇の名のもとに行われた訳ですが。